江戸時代の屋号を守って家族で支える町の蕎麦屋「三條尾張屋」
蕎麦をお客さんに提供する日常が生活の風景
物心ついた時から「お客さんが毎日来るお店が日常の一部」とはどういった風景なのだろう。 東洞院六角を少し北に歩いたところにある蕎麦屋「三條尾張屋」さんには、3代目の父と、母、夫で経営するお店の事を4代目の若女将遼子さんの目線でお話を聞きました。
江戸から続くお店を引き取って
――お店はいつからあるのですか?
店の来歴はさかのぼると「尾張屋六蕎軒(ろっきょうけん)」として江戸時代からお店をたたんでしまう危機があった時に蕎麦屋を彦根出身の祖父が屋号の「尾張屋」を引き取って継続させました。
――そうだったのですね。お店が無くならずよかったですね。それからお父さんが3代目として継がれたという事ですか?
それが父も京都出身ではなく、学校の教員をしていて3代目としてやっていくことになったと聞いています。三条寺町の「田毎(たごと)」で半年間学び、お店をしながら日々出汁の取り方などの研究に明け暮れていたようです。
――2代続いて外からお店を守られてきた。尾張屋に魅力があったと言う証ですね。出汁など味をそのまま引き継いでいく印象を持ちがちですが違うのですね。
もちろん引き継ぐのですが研究熱心な性格から父がよく言うのが、伝統を守るのは追求してより良いものにする工夫へ思いがあるからという事。伝統を守るとはそういうことで、京都の人は負けず嫌いが多いんだよって、よく言っています。
父の研究熱心なエピソードに、例えば出汁を取る時、昆布はグラグラ煮立てていたけど、利尻昆布を使用した時に購買元の方から60°で出汁を焚くと良いという話を聞いて、真摯にアドバイスに向き合い、美味しさを追求し今の出汁になっていると聞いています。
蕎麦屋が自宅の日常風景
――革新は伝統の工夫から出るものなのですね。4代目遼子さんはどんな思いで継がれたのですか?
こうしてここに立っていますが、私の中では学ぶべきことがたくさんあり、今は4代目として継いでいっている最中というのが現在地です。
――遼子さんは自宅が蕎麦屋という環境なので継ぐのが自然な流れだったのですね。
そうですね、そういう思いもあったのですが、働くことも近づいてくる学生の頃に特にやりたい事とかが見つからずにいました。父と母が蕎麦屋をやっている姿を見ながらいずれやるのだろうなと漠然と思っていたのが当時の思いです。 実際には最初に就職したのは2年ほど京都の漬物屋で販売の仕事をしていました。
――すぐに働かれたわけではなかったのですね。
実家を継ぐのが働いた実感がなかったのでしょうか、今思えば自分で働いてお金を稼いだ実感が欲しかったのかもしれません。別の仕事をしてみて外から「尾張屋」を見る事ができ、蕎麦屋をやりたい思いが芽生えてきました。
――それではその後に尾張屋へ継がれたのですか?ご両親も喜ばれたのではないですか?
喜んでくれていたと思います。ただ東京で修行したいと父に言った時は遠く離れるので心配されました。それでも父が掛け合ってくれ、ご縁があって東京の上野藪そばで働く事にしました。
――そうだったのですね。なんで東京だったのですか?
蕎麦と言えばやはり関東がメッカでもあったので。また東京に行ってみたかったのもあります。
――見るもの何もが目新しい情報の発信源として、若者には魅力的ですよね。
そうなのです(笑)。当初は独身ですから、やはり楽しくて当初より修行の期限が延びました。 ただおかげでその時に仲間もできて遠くなった今も連絡をとりあえて、とてもいい時間を過ごせたと思っています。
――遼子さんが帰ってこられてご両親も待ちわびられていたのではないですか。
安心してくれたと思いますが、なんといっても家族なので遠慮がなく些細な事でよく喧嘩しますよ(笑)
――やはりそうですか(笑)私(SinQスタッフ)が親子経営ではないので実家が蕎麦屋とはどんな感じなのだろうと思ったので。
それが生まれた時から普通なのでなんとも言えないですが、独身で修行した時代、結婚、出産と自分自身の状況が年齢を重ねるごとに変わっていき、今は「三條尾張屋」「蕎麦」自体が私にとって家族そのものと感じています。家族のように次に繋げたいと思ってやっています。
4代目としての三條尾張屋
――継いでいる最中にいるとお聞きしましたが大切にされている思いなどあれば教えてください。
独身の時は蕎麦を打っていたのですが結婚、出産の後だんだんホールにいる事が多くなり、お客さんと接する機会が増えました。私自身よく喋る性格なのでお客さんとの会話の中で「こんなのないの?」と言われる事も多く、試しに出してみたら好評で商品にしたという事もあります。些細なことでもいいのでお客さんがどんなものを望まれているか気にかけています。
――お客さんにとっては細やかな対応がとても嬉しいと思います。お父様とはまた違った遼子さんならではの魅力ですね。
ありがとうございます。父が三條尾張屋を高級な蕎麦ではなく、本来救荒作物であった庶民の食べ物としての蕎麦屋でありたい。という部分を引き継ぎ、さらにお客さんとつながりを深めて、親しみを感じてもらえるお店にしていけたらと思っています。
4代目となる遼子さんの思いから「三條尾張屋」さんのお話を聞きました。夫の立希さんはコーヒーを入れる仕事に継いていたのですが今は蕎麦を提供する仕事に。家族の温かさを蕎麦と一緒に感じるそんなお店でした。(文/写真:山本)
三條尾張屋 4代目 矢野 遼子さん
1984年京都生まれ。現在のお店で育ち家族で蕎麦屋を営む。4代目としてお店を継いでいく若女将。 今は昼間はお店を切り盛りしながら2児の小さな子どもを育てるSuperお母さん。
※掲載内容は取材時のものです。最新情報は念のため店舗公式の情報をご覧ください。